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僕が照明を始めたのは1984年だから、もうなる。最近では、僕よりも若い照明デザイナーも、業界で活躍するようになってきた。照明デザイナーとしては僕はまだまだ若輩だが、年齢ばかりはオヤジ世代に足を踏み入れたのだろう、悩める若き照明デザイナー達の仕事ぶりを見て、どうしてもアドバイスのようなことをしたくてしょうがなくなる時がある。そのオヤジ心を抑えきれずに、生意気にも「照明デザインの考え方」についての文を書いてしまったのが、これである。照明デザイナーであるあなたが、ここに書いてあることに従おうが逆らおうが、僕には関係ないし興味もない。照明をつけているのか、という伝えることができれば幸いである。照明デザイナーが照明をやっていて、色々と悩むことが多いことは想像に難くない。 演出家から「このシーンの照明って、これ?」という屈辱的な質問をされて傷ついたことは、二度ではないはずだ。照明が、演出家の好みと全く違っていて全部作り直しになったり、演出家に通りそのままの照明を作ったつもりなのに照明デザイナーは傷つく。照明デザイナーは、自分の感性が劣っていないことを信じて、また、劣ってないことを証明するために、照明の色々なアイデアを、必死に演出家に提案しようとする。自分が最初に作った照明の良さが一度で伝わらないことがあるのは、まあ仕方がない、ならば他にもいくつかアイデアを提案するから、せめてその中の一つを採用して欲しい。演出家から照明の逆指定を受けるような恥辱は、と照明デザイナーは悩む。デザイナーが悩むのは「良い照明を作りたい」という一心からである。 デザイナーほど、「作る照明によって作品の出来上がりが大きく変わる」と思っているから、「良い作品にするために、良い照明を何とかして作らなければならない」と、苦悩するのだ。プランを始めてみると、自分が知っているいくつかの照明技法の中から、「これにしようか」「あれにしようか」とアイデアばかりは一応出るけれど、その中のどれにしたら良いのかなかなか決められない。演出家に相談してみても、「実際に見せてもらわないとわかんないなぁ」とか言われてしまう。プランが最初からピタリピタリと迷わず決まったと思ったら、劇場入りして演出家に見せた時に「雰囲気が基本的に違う」と全否定されたりする。デザイナーはよくするし、僕も若いころは何度もそのような失敗をした。 照明デザイナーがやるべきことは「良い照明を作る」ことではなく、「既に決まっているはずの照明を探索し、発見し、実現する」こと、なのである。デザイナーがそう思うのは無理もないことである。「作る前から既に決まっている」という例は、冷静に考えれば実は結構あることなのだ。 たとえ話として、みんなでカレーライスを作っているところを想像してみて欲しい。 中に一人、料理全体を指揮する人=シェフがいて、これが演出家に相当すると考えてみよう。照明家であるあなたは、カレーの材料となるジャガイモやニンジンを切る係だ。最初にジャガイモを切るとする。あなたはカレーに入れるジャガイモを、どのような形、どのような大きさに切るだろうか。カレーライスをイメージして、それに基づいた形・大きさにジャガイモを切ろうとすることだろう。ジャガイモの切り方なんて、そう何種類もあるもんじゃない。あなたがジャガイモを切ろうとした瞬間、シェフ(演出家)からこんなダメダシがあったとする。ジャガイモを、3ミリの細切りにしろ、と言われて、あなたはどう反応するだろうか。 賢明なあなたはそんなことはしない。シェフの言うことだから、もちろん従うし、シェフの言葉に従いつつも、「いったいどういうカレーライスを作ろうとしているんだろう」と、この変わったカレーの出来上がりの状態をイメージしようとするだろう。シェフに「どんなカレーになるんですか?」と尋ねるかも知れない。細切りのジャガイモが入ったカレーライスの出来上がりの状態やその味を、想像してみようとないだろうか。 カレーは、自分の知っているカレーとは基本的に違うものなのだ、ということを受け入れなければならないことはおわかりだろう。場ではカレーだけを元にジャガイモの切り方を議論していても駄目だし、自分とシェフの中間の妥協点を見つけようと無駄だと言うことだ。今から作ろうとしているカレーの味は、シェフだけが知っており、シェフの頭の中には、その明確なイメージがはずである。ジャガイモは、細切りにするということが最初から決まっている。あなたがニンジンを切ろうとするときも、切り方にはこだわらないだろう。 ニンジンの切り方は「どうすれば良いのか」をシェフに尋ねるだろうし、あなたがその時点で既に「シェフのカレー」の出来上がりの状態やその味をうまくイメージできてシェフの指定する切り方から発展させて、シェフ自身も思いつかなかったような、「もっと美味しそうな」ニンジンの切り方をシェフに提案することすらできるかも知れない。あなたが提案した新しいニンジンの切り方が「シェフのカレー」に採用されれば、それによって作られるカレーは、「シェフのカレー」に似ているけれど少しだけ違う、まだ誰も食べたことのない、新しいカレーとなる。未知のものだけれども、二人の頭の中には共通する美味しいカレーのイメージがある。そのカレーのためにはジャガイモやニンジンを二人ともわかっていて、それに確信を持っている。そのカレーはジャガイモとニンジンの切り方はこれしかないと、二人の中では決まっているのである。 話を舞台照明に戻そう。 照明デザイナーには奇異に思えるかも知れないが、稽古場やスタジオでリハーサルが繰り返されている時点で、その作品の照明は「既に決まっている」のだ。イメージが明確であればあるほど、その作品の照明は劇場に入る前から「既に決まっている」。完成イメージが弱い場合であっても、どんな照明にするべき基本方針ぐらいは最初から決まっている、と考えるべきである。先ほどの例でニンジンの切り方が新しくなることによって新しいカレーが生まれたように、「既に決まっている」と言っても変化し得るものである。例でシェフが最初から「ジャガイモは3ミリの細切り」と決めてに、舞台作品においても、稽古やリハーサルが開始され作品が完成することが約束された時点で、その照明は決まっている。 決まっているその照明が、照明家によってうまく「探索され、発見され」、そしてよりよい形に「更新」されていくことによって照明が成功するのだ。舞台照明は、照明デザイナーの感性のみによってゼロから作られるべきものではない。照明は作品の中に最初から内在するものであり、それを「発見」して実現させるのが照明デザイナーの役目である。デザイナーには知れない。デザイナーがなぜ失敗するかと言えば、この「既に決まっている照明」を探ろうとせず、「新しく自分で作った照明」だけでやろうとするからである。 先ほどのカレーにたとえるなら、最初からジャガイモを角切りに切っておいて、「どんなカレーにしますか」と言うようなものである。あなたがジャガイモを角切りにして持ってきてしまった時点で、それはシェフのカレーとは「全然違う」。照明家が自分で作った照明は、必ずしも作品作りの素材とはならない、ということだ。デザイナーが照明を自分で作りたがるもう一つの理由として、まだ照明の技術レベルが低いために「自分の得意な照明技法」に対する愛着が強すぎるということがある。 照明の新しい技法を自分で発見したりすると、それを使いたくなるものである。カレーを作る調理場で、大根のかつら剥きや、魚の三枚おろしを披露してはならない。シェフならあなたの顔を立てようとして、カレーにかつら剥きを使えないものか、などと悩んでしまうかも知れない。得意とする照明技術を見せびらかす行為は、たとえそれがどんなに美しい照明であっても、無駄になるばかりか、作品をぶち壊しにしてしまう可能性すらある。かつら剥きが弱いシェフのカレーを台無しにしてしまうように、である。照明家はまず、作品には「既に決まっている照明」があることを受け入れて、それを探索することからなければならないのだ。照明家は演出家や美術家と事前に打ち合わせをして、どんな照明を作るべきかを話し合い、それを実現させればよいということなのだろうか。 残念ながら話はそう簡単ではない。演出家や美術家には照明の技術は基本的には無いと考えなければならない。イメージを持つことはできても、その照明の「材料」や「作り方」はわからないのだ。演出家は、照明家の作った光に対して、「もっと塩を強く」とか「甘みより酸味を中心に」とか注文をつけるかも知れない。演出家が「塩を強く」と言ったら、それは出来上がりの味として「もっと塩味を強く感じる出来上がりに」という意味であり、実際の調味料としての「塩」を加えるかどうかは、照明家であるあなたが判断すべきことである。 演出家はときおり、照明の技術は無いくせに照明についてやけに具体的な注文をすることがある。 出来上がりのイメージだけを元に注文を言っているととらえなければならない。照明への指示が具体的に見えようとも、例えば「もっと青を強くして欲しい」とか、「あのオレンジの照明だけにして欲しい」とか言っていても、それにそのまま従うことが演出の意図に沿うとは限らない。演出家から指示を受けた場合、照明家のやるべきことは、その指示にそのまま従うことではなく、その「指示を出した真の意図」を分析し、その指示の元となっている演出家の頭の中のイメージを「割り出し」て、それを理解し、共有し、そしてそのイメージを実現するための照明を実行することである。デザイナーが演出家から照明のことを具体的に指示されて、納得できないままに「演出の指定だから」とそのまま受け入れてしまう例を見ることがあるが、照明デザイナーの一番重要な責務を放棄する行為である。 照明デザイナーは、作品が完成するまで、演出家とイメージを共有する努力を絶え間なく続けていなければならない。 照明家の仕事は料理ができないくせに厳しく指定するシェフに従って料理を作るようなものだからだ。冷静に考えれば、そんなシェフを満足させるためにだって、色々なアプローチが気づくはずだ。シェフが求めている味のイメージをつかめなければ、シェフ自身が他にどんな食べ物が好きかをシェフに尋ねてみてはどうか。出身地や年齢など、味の好みを左右する要素はたくさんある。繰り返しつつ、シェフがイメージしている味を「探索して」いけばよいのだ。幸運な僕たち照明家は何よりも指針を最初から持っている。美味しくない料理を作りたがるシェフがいないように、演出家たちも、「良い照明」をイメージしているに決まっているのだ。演出家に質問するのなら、照明のことだけではなく、作品世界のことを尋ねよう。 シェフに好みの食べ物やである。外壁は人は人口は? そういったこと、設定とは無関係に思えるような質問でも、演出家の頭の中にあるイメージを「割り出す」ためには役立つ。演出家の持っているイメージを探索しよう。イメージの共有さえうまく成功すれば、それを新たなスタートラインとして、様々な照明の可能性を少しずつ提案しながら「更新」を進めることが可能となる。照明デザイナーには、「演出家の照明感性を信じ、尊重する」ということを提案したい。 い人にも感性がように、照明を仕込むことができない演出家も、照明のすばらしい感性を持っている、と考えるべきである。演出家と照明家とで照明の感性を競い合うのは意味がない。演出家と自分とで、考える照明が異なっていたからといって、それを感性の違いだと考えるべきではない。照明が演出家の意図と異なってしまったとすれば、それはイメージの共有が不十分だからである。演出家がカレーライスを作ろうとしているところで、ハヤシライスを作ってしまったようなものだ。あなたのハヤシライスはたしかに美味しいだろう。演出家の求めるものではない。上手にできたハヤシライスであっても、ためらわず捨ててしまおう。照明デザインは食べ物と違って、捨てても決して無駄にはならない。 照明家には技術がある。 イメージに固執してしまわないよう、心を十分に開いて、柔軟な心持ちで、捨てられる勇気を持って、現場にのぞまなければならない。あなたには誇るべき、立派な照明技術がある。演出家にも立派な照明感性があると信じようじゃないか。演出家の感性を信じ、それにあなたの技術を合わせれば、きっと照明を成功に導くことができる。他者と照明イメージを共有し、それが照明デザインの本当の醍醐味だと僕は思う。照明なんてつまらないと、僕は思う。僕は、僕一人だけでは作ることのできない照明を、目指している。
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