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意味であって、別に「厳密な学問として勉強というものを捉えてみる」だとか、そういう難しい話ではない。「勉強学」などと、そんなことを書こうと思ったのかというと、「なぜ勉強をするのか」や「どうやってやればよいのか」ということを、誰もはっきりとした形で示していないのではないかと考えたからだ。
頃から、勉強は「やるべきもの」ということになっていて、その考えは半ば強制されている。

勉強そのものについては、ほとんど説明されることがない。小学校に入りたての子供に「勉強の意義」というような難しい話をしても、仕方がしれない。
で誰かが説明するべきことなのではないだろうか。私は、私が思い付くような、勉強をすることの意味やそのやり方というようなことを書いてみようと思ったのである。
ちなみに、私がこれから書くときに気を付けようと思うのは、これまで勉強法として説明されてきたような、「とにかく集中してやる」だとか「自分のフィーリングにあった教材を選ぶ」だとか、そういう具体性のないことを書かないということだ。

前置きはこのくらいにして、次からはまず「勉強すると、どんなよいことがあるのか」ということ、つまりは「勉強の効用」という、それなしには勉強を始めることも続けることも難しくなってしまうような、大事な事柄について書思う。


勉強の効用というのは一体何なのだろうか。
勉強すると、どんな良いことがのだろうか。
私たちが勉強に出会ったのは学校だったが、学校で勉強を教えているのだろうか。
ご存知のとおり、「すべての国民は……保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」と憲法には書いてある。結局、勉強させているのは国なのらしい。国が勉強をさせるかというと、勉強ができる人間がたくさんいることが国にとって都合がよいからに違いない。
すべてが文字も読めないし金勘定もできないのだとしたら、国が立ち行かないのはだろうとも思える。ように国を動かすために直接に組織の中で働く人たちでなくても、勉強した成果が、ある程度は集団の中に参加する資格のようなものとして期待されている、とも考えられる。文字が読めたり金勘定ができたりするのは、社会に受け入れられるための条件になっている部分があるということだ。
方が集団の中に受け入れられやすいという事実は変わらないのではないだろうか。結局、国はその集団としての利益に子供に勉強をやらせようと教育を受ける側としては自分が集団に受け容れられやすくなるために勉強するという部分がのだと言えそうだ。
人はひとりでは生きにくいという現実があって、だから集団に受け容れられようとするという大前提があるのらしい。そのために勉強するという訳だ。
勉強をした方が役に立つことができるようになりやすく、そうすると社会に受け容れられやすい、だから、自分にも有利だと、つまりはそういうことなのらしい。
こういう考え方のもとでは、ある程度社会に受け容れられるくらいに勉強ができれば、もうそれ以上は必要はないのだし、もともとすべての人が勉強をして得られるものによって役に立たなければならないと決まったものでもないのだから、人と違う特別な才能があるなら勉強などしなくてもよいのではないか、というような考えも出てきてしまう。
人が集団の中で生きていくために勉強するのだというのでは、必ずしも生活に必要ではないような高度なことを学ぶ理由にはならないことになる。
では、社会の中で自分が生きる場所を見つけて、そこで満足して生きている人に対しても、「それでも、やっぱりもっと勉強した方がよいのだ」という風にもし言えるのだとしたら、その理由としてどんなことが考えられるだろうか。
私は勉強をすることには、単に集団に受け入れられるためという理由以上の価値があるだろうと感じている訳である。勉強すると何がよいのだろうか。ために勉強を続けている人というのはいるのだと思う。勉強には楽しい面もある。 色々なことを理解していくのは、自分の能力が発揮され、同時に向上していくことでもあるのだから、嬉しいことには違いないだろう。自分の能力が発揮されていくことを感じて喜びを得るためなら、別に勉強でなくとも得意なことをやればよいのだし、運動が苦手な人に無理矢理何かの種目でオリンピックに出ることを目標に努力することを強要すべきでないのと同じように、勉強に向かない人に勉強を勧めるべきではないことになってしまうだろう。
積極的に主張できるような「勉強の効用」はないのだろうかと私は考えた。その答えとして、二つのことを思いついた。
勉強の効用として私が考えたことの一つ目、勉強をすると「自分をコントロールする術を知ることができる」ということについて書いてみたい。
数学の問題を解くときのことを考えてみよう。
そのとき私たちは、まず問題文を読んでその内容を理解し、何を問うているかを解釈してから、どう解くかの計画を立てて、実際に式などを操作して問題を解かなくてはいけないことになる。読み解かない注意深さ、問題の意味を理解するための知識、解き方を頭の中で組み立てる論理的な思考の能力、そして、式の操作が滑らかに素早くできる技術などが必要になってくるだろう。私がここで注目したいのは、問題を解かなければならないときに心の中に起こる「恐れ」と、それに対する「自分の心の制御」ということだ。
ときに、「自分は解けないのではないか。間違ってしまうのではないか。自分の考え方はこれでよいのだろうか」と思ってしまうということと、それに負けないでために自分自身をコントロールできるということだ。
考えることができるから、難しい問題も解けるし、自分を脅かすかもしれない先々の危険を予測することもできる。その考えるという能力は、余計なものまで連れてきてしまった。失敗や危険を予測できるようになった。しまったという訳だ。恐れは、部分を持っている。
勉強をしているとき、だから、説明を読んだり問題を解いたりするときにも、私たちを襲うことが度々ある。
解き方が分からないこと。人間は、そういう失敗を予測して、逃げ出したくなってしまう。
「恐れ」を解決するには、実際に解決すべき問題に関わるしかない。
説明の中で分からない言葉を意識して見つけ出し、それを調べて潰していくこと。自分が解決すべき問題を正確に捉えて、その解決策を論理的に組み立てること。解決に近づいていくこと。心はいく。実際に書きはじめた文字たちが、解決にたどり着くための道になってくれるのを心強く感じる。
答えに到達したときには、上手くいったことと自分が恐れに打ち勝ったことを感じて快く思う。勉強しているとこんな気持を持つことがある。
勉強は自分の恐れや焦りや不安を自分で抑える方法を教えてくれる。勉強は自分をコントロールするための訓練なのである。そうした訓練ならば、スポーツを楽器を奏でたりすることでもできるだろう。
勉強では、自分の正しさに答えてくれる「もの」が欠けているということが大きな特徴だ。
楽器を弾けば、楽器自体が答えてくれる。
自分が弾けているかは、楽器自身がその音で証明してくれる。自分が上手くプレーできているかは、ボールが答えてくれる。ドリブルやシュートが証明してくれる。勉強の場合はいかない。
自分の書いた文字たちは何とも頼りがないものだ。自分が間違った考え方をしているときには、落書きと同じだからだ。自分の書いた文字は自分の頭の中を表現している。自分の正しさを証明してくれるものがない。狂人の言葉と変わりない。頭の中の正しさは、答えにたどり着いたときに証明される。 そのときが来て、人は自分の考えの正しさを知ることができる。自分が恐れに負けなかったことをも悟るのだ。頭と手と紙と鉛筆とだけで勉強することは、大切なことなのだと私は考える。そういう訳で、勉強の効用として私が考えた「自分をコントロールする術を知る」というのは、こうした意味合いである。

次回は、勉強の効用として考えた、もう一つのこと、勉強は「ものの見方を変えてくれる」ということについて、書こうと思う。
勉強のもう一つの効用は、「勉強は世界の見方を変えてくれる」というものだ。
勉強が世界の見方を変えるということと、それ自体の重要性とを明確に示すのは難しい。人にとって、かけ算を知らない世界を想像するのは難しい。
時間と距離と速度の関係を自分が分かっていないような状態や三次元座標というものを知らない状態を想像するのも、りである。
色々なことを知らない、分かっていないということは、知らなくて困るというだけでなく、自分にとっての世界が、それを知っている人と違っているということだ。
ことを分かっていない人は、人と違う世界に住んでいるのである。三次元座標というものを知ることで、裏側でも同じ均一な空間が広がっている、と世界を捉えることができるようになる。
言うと、そんな考えがなかった昔は、空間が均一だと考えられてかったのかもしれないと想像することができる。自分の家の中と墓場や山奥とでは、空間の密度が違うと考えられていた、というようなことだ。
この話がピンとこない人は、三次元座標という考えが分かってい人だ。
自分もそうだったという事実も忘れ去られてしまう。世界の新しい捉え方を獲得したとしても、そのことの大切さも見過ごされてしまいやすいのではないだろうか。そういう訳で、新しいものの考え方を学ぶことの重要性は認められにくいものなのだと、私には感じられる。
自分が知らない高度な知識を知ることで、どんな風に世界が変わるかと言うことは、考えるのが難しいどころか、考えられない。
自分が知らないものについて、言うことはできないからだ。知らないことについて、語ることはできない。当たり前のことだけれども、無視されてしまう事柄である。人が、「マンガなんて下らないに決まってる」と言うと、マンガ好きの人は「読んだこともないのに、下らないことを言うな」と文句を言うだろう。
自分では「数学なんて社会に出たら何の役にも立たないのだから、そんなものはいらない」と言ってしまったりする。自分が、「数学」というものを知っている訳でもないのに、である。知らないことについては、誰も言えない。 自分が新しいことを学ぶ必要は誰にも言えない。この表現は消極的なものでしかない。こういう表現をしてしまうのは、勉強することで自分にとっての世界を変えることの大切さを、積極的に示すのが難しいからである。
子供は、ないものを、深刻に考えたり大騒ぎしたりする。子供の世界が狭いからである。大切なことを学んでいないことで、自分が子供のような世界の狭さを持ってはいか、という疑いも成り立つのではないだろうか。分野を学んできた、いわゆる「理系」の人の一部にも、そういう狭い世界に閉じ籠もってしまっている人たちがいるものだ。
彼らの中では、自分の世界のほとんど全部が、自分の興味のある分野だけで作られている、ということになってしまっていることが多い。自分の持つ技術を誰もが尊重すると勝手に思い込んでいる。
知識や技術を人が持っていないということを、軽蔑したりする。神秘的なものにすぐに頭をやられてしまって、おかしな新興宗教に入ってしまったりまでするのである。自分の世界が狭いために、そういう幼さを持ってしまっているという訳だ。
自分がこだわっている問題を、もうすでに誰かが解決しているかもしれない。 その問題そのもので解決するためのヒントになるようなことを誰かが考えているかもしれない。重要な問題ではしれない。そういう予感が、欠けているのではないだろうか。
自分を魅了するようなことが、学問の世界に眠っているかもしれない。
自分の世界を一変させるようなことが、勉強することでしれない。自分が愚かに見えてしまうようなことが、自分には見えていないどこかに、あるのかもしれない。そういう可能性は、どこまで学んで行っても、最後まで否定することができないものだ。ときにはいつでも、自分では考えつかないような、だから、自分にとって新しい見方をその本から学ぶことで、世界に一度自分で自分を生まれ変わらせることができるかもしれないという、そんな期待を少しだけ抱いている。

世界が狭いということが、自分が詰まらないものに捕らわれてしまうことの原因ならば、新しい見方を学ぶことは、自分を解放することだとは言えないだろうか。
世界を新たに見いだそうとすることは、いまの自分以上に世界を味わい尽くそうとすることだとは、言えないだろうか。
自分には分かっていないような世界の見方を編み出した人たち、そういう人たちと同じように新しい見方を創り出すことができれば、きっと素晴らしいに違いない。それが無理だとしても、彼らがどんな風に世界を見ていたのか、私は知りたいと思う。世界の見方を学んで、自分を解放すること。
勉強がもたらしてくれる効用として私が考えるのは、つまりは、そういうことである。


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